プシコ ナウティカ―イタリア精神医療の人類学
09/11/2020 23:40:56, 本, 松嶋 健
によって 松嶋 健
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内容紹介 なぜ精神病院を廃絶したのか? 精神病院から地域への移行で何が生じたか。地域精神保健サービスの現場でいま何が行なわれているのか。イタリア精神医療の歴史と現状を展望し、「人間」を中心にすえた、地域での集合的な生のかたちを描く。 出版社からのコメント イタリアの精神医療の歴史、とくに地域精神保健の成立と精神病院の撤廃に関する最も優れた日本語の記述である。〔中略〕必読の1冊――鈴木晃仁, 『こころの科学』2015/02/25 7年がけでフィールドワークし、「精神医療」から「精神保健」の移行を緻密かつダイナミックに描き出す。〔中略〕本書は、挑発する人類学の復活を告げる――鎌田東二, 『週刊 読書人』2014/07/25 精神病院を全廃したバザーリアの思想と実践を紹介し意義を論じイタリアの地域精神医療を丁寧に調べ上げる。読み応えのある人類学の成果――好井裕明, 『週刊 読書人』2014/12/19 イタリア精神医療の綿密な歴史的研究と厚いフィールドワークの観察を同時に用いて、その姿を日本人の幻想から洗い出し、さらに精神分析(psico-analisi)ではなく、魂の航海術(psico-nautica)を著者がイタリアでの実践経験からつかみ取った――三脇康生, 『図書新聞』2014/12/13 内容(「BOOK」データベースより) なぜイタリアは精神病院を廃絶したのか?その背景にどのような考えがあったのか。精神病院から地域への移行で何が生じたか。地域精神保健サービスの現場でいま何が行なわれているのか。イタリア精神医療の歴史と現状を展望し、「人間」を中心にすえた地域での集合的な生のかたちを描く。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 松嶋/健 京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。日本学術振興会特別研究員。国立民族学博物館外来研究員。多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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ブックレビュー『プシコナウティカ』イタリア精神医療の人類学松嶋健世界思想社2014本著のタイトル『プシコナウティカ』とは著者によれば「魂の航海(術」」という意味である。イタリアの精神医療改革に関しては、例えばジャーナリスト大熊一夫氏による『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』,岩波書店2009等優れた紹介が出版されておりお読みになられた方も多いかと思う。医療人類学者である松嶋氏は現代思想的な背景をおさえて、6年間にもわたる長期間のフィールドワークを行って本著を書き上げた。従来混乱の原因ともなってきた「精神と身体」「抑圧と自由」「正常と病」等々の様々な二項対立図式が理論的にも実証的にも大変丁寧に論じられているのも本著の特徴の一つである。また「地域」等人によって様々な使われ方をされてきていた概念もイタリアの文脈に沿って具体的に論じている。本稿では著者が主張する論点をまずは理論的な部分から紹介していきたい。1. 病気を括弧に入れるということ。「病気」という概念それ自体が社会的な産物でもあるという点は、医療人類学者のみならず当事者や一部の専門家が社会的観点から「精神病」を論じる際、多くの人々が主張してきた議論である。「精神疾患原因は社会にある」、あるいは「精神病」と言うカテゴリー自体が近代精神医学という「統治の技術」の産物であるという主張である。では括弧に入れて何を観るのが具体的に重要なのだろうか?著者は「精神病」とは当事者にとって「病」というよりは「人生の危機」であると説く。この「人生の危機」をどうやってのりきっていくことを支えていくのかが精神保健従事者の一番大切な役割である。そして「人生の危機」というのは誰にでも起きうることなのだから、単に精神障害当事者や精神医療/保健従事者のみならず現代を生きる多くの人にとって切実かつ根源的な問いだと私は思う。これらの問いに生涯をかけて取り組んだバザーリアやの取組を具体的に詳細に紹介していくことから本著は始まる。2イタリア「地域」精神医療/精神保健について―「地域」とは何か1978年イタリアが精神病院を180号法(いわゆるバザーリア法)によって精神病院を閉鎖する方針を国家として決定したことはご存知の方も多いだろう。その具体的な歴史やプロセスは本著の前半部分において大変詳しく記述されている。この点に関心がある方はそれだけでも本著を一読するに値するであろう。特にイタリアの「地域精神保健」に関しては詳細な紹介やその理論的思想的背景がこれまでなされてこなかったのでご一読を強くお勧めしたい。ちなみに本著によれば有名なケネディ演説をきっかけに「脱施設化」が進んだといわれるアメリカの地域精神保健体制下では、いわゆる「回転ドア」現象(退院:入院の繰り返し)が起きていたこと、さらには地域から「患者」の精神病院収容の機能さえも果たしていることもバザーリアは知っていた。ただ単に精神病院を「改革」「閉鎖」するだけではなく、「社会」や「地域」をも変えていかなければ意味がない、精神病院だけの「改革」では、たとえ、それが精神病院の全面的廃止であろうと、地域精神保健体制や地域が代わりの機能を果たすであろうといったバザーリアの論点は今まで充分に日本に紹介されてこなかったと思う。また「解放の道具」は「抑圧の道具」に容易に転じうることも彼は理解していたことも是非付け加えておきたい。重要なのは絶えざる闘争=運動による関係の「真正の水平性(レヴィ・ストロース)」の実現であり、〈主体性〉の奪還である。そしてそれは「地域」によって初めて可能であるという点は本著の基本的な論点である。「五千の人々が作る社会は、五百の人々の作る社会と同じではない(同)」。これは端的に規模の問題であると同時に質的な問題でもある。例えば国家等、規模が大きい単位の社会においては、マスメディアや法や選挙制度といった媒体に媒介されたコミュニケーション(「障害者」「高齢者」といった一般的なカテゴリーと、「危険」や「弱者」といった極度に単純化されたイメージにとの結合)に基づいて政治が行われるのに対して、規模の小さな社会においては集会等具体的な「顔」見える関係での直接的なコミュニケーションに基づき個人が直接参加した形での政治が行われるのである。著者は観客との複雑なやり取りや様々な出来事が生じる音楽のライブ演奏とその複雑性を大幅に縮減して制作されるCDの音楽とを対比させてその違いを説明する。3「強い主体」と「弱い主体」「強い主体」というのは近代国家の成立と同時に誕生した、「市民権」を持ち「個」として直接に「国家」と関係するような「主体」である。簡単にまとめてしまうと「(強い)主体」というのは、学校や家族や教会などの様々な(国家)イデオオギー装置の産物であり、「生権力―(かつての権力が人々を死の中に投棄することによって作動していたのに対して、近代国家は様々な統治のテクノロジーを通して人々を生きさせることによって統治する)」(フーコー)のテクノロジーによって作られた「主体」である。いわゆる「福祉国家体制」も「生権力論」の観点から批判的考察の対象となる。さて「強い主体」と言うのは「個」の「万能感(全能妄想)」に依拠している場合が多く、それは、結果的にしばしば「鬱」状態に陥る事例が多い。またこの「万能感(全能妄想)」に取りつかれている「強い主体」は、決して「病者」だけではないという本著の指摘は、昨今の政治家の言動等を見ていてもうなずける点だと思う。さて本著によれば「集合的主体性」として「存在」する「弱い主体」という考え方こそが近代の産物である「国家」と「強い主体」にこうしていくうえで極めて重要となる。そこにおいて初めて〈主体性〉と「自由」は病者に「返還」される。その際心理学でいうところの〈効力感〉(自分が誰かの役に立っているー他者やモノゴトに対して影響を与えているという感覚)が極めて重要であるという点は本著5章でのイタリアでの有機農法農場でブドウ摘み作業に従事する当事者への聞き取り調査等も含め大変興味深い。日本で作業療法にかかわっている方等にも参考になるものと思われる。(以下次号に続く)書評『プシコナウティカ』イタリア精神医療の人類学(その2)七瀬タロウ1イタリアの地域精神保健について精神医療と精神保健の根本的な違いというのはイタリアの精神医療/保健制度改革を理解するうえで極めて重要である。精神医療体制(精神病院)から精神保健体制(地域精神保健センター)への移行と一連のイタリアの精神医療改革を理解しても良いであろう。ではイタリアの地域精神保健とは具体的にどのようなものなのであろうか?我々はどうしても保健という言葉を聞くと日本の保健所や現在日本でも試行されている他職種専門家チームによるアウトリーチ事業などを連想してしまうが、イタリアの地域精神保健というのは明らかにそれとはまったく違うので、まずはその点を本著に沿って簡単に説明しておきたい。2精神保健センターについてイタリアでは日本のように最初にクリニックや精神科外来にかかるのではなく、精神保健センターを利用するのが通常である。精神保健センターは単なる精神科外来ではなく、様々な困難や問題を抱える利用者が地域で生活しながらより多くの主体性を行使することが出来るよう、各利用者ごとに個別の治療とリハビリのプログラムを立て、それを具体化していくのがセンターの中心的な仕事である(P.210)。地域精神保健センターで働く人は職種を超えてオペラトーレと呼ばれるが精神的不調に苦しむ人々はオペラトーレと「共に道程を歩む」ことによって、「自分をふたたび位置づけられるようになる」。それは具体的な場所のことではなくて、人生の航海、魂の航海において、自分がどのあたりにいるかわかるようになるということである(P.213)。最終的に本人の行為の可能性を拡張し、主体性の行使するのを助けるのがオペラトーレの仕事なのである。ちなみに精神保健センターは外国人や難民、いわゆる不法滞在者にも門戸が開かれている。不法滞在者を警察に通報するようなことは一切せず、彼らの「人生の危機」に精神保健センターは積極的に対応する。本著7章3には「国家に抗する地域精神保健」という刺激的なタイトルがついたついた文章が載っているが、いわゆる新自由主義的な財政の締めつけで、とりわけ2001年の第二次ベルルスコーニ政権以降は保健医療費削減の影響が現場にも深刻な影響を及ぼしている。ある精神保健センターではかつては8人の医師と14人の看護師が働いていたが現在は4人の医師と8人の看護師にまで人員が削減されている。スタッフの数が不足した結果利用者の家に通ったり、緊急事態に対応したり色々なプログラムを実施することが極めて困難になってきている。ある看護師はこういっている「私たちの仕事は、精神病院から外に出させて、それで二度と病院に戻らせないことだったのよ。だからどんなに急性期の患者でも、収容するなんてまず考えなかった。多くが一般病院に一時的に滞在したのよ。だから私たちも一般病院に行って夜をすごしたわ‥希死念慮がひどくて自殺しそうな患者がいたときも、私たちの誰かがずっとそばについていたのよ。強制入院なんかさせなくても、24時間誰かがそばについていれば大丈夫なのよ。それでずっとからだを抱きしめていたりしたわ‥でも、今じゃ無理ね。だって人が少なすぎるんだから。」日本の精神科病院では精神科救急やスーパー救急に力を入れているそうだが、その方たちは、このようなイタリアでの実践をどう思われるのか、ぜひ率直な感想を聞かせていただきたいものである。3カーサ・ファミリアについて日本でいうところのグループホームにあたるが、日本語に直訳すると「家族の家」という意味である。これもまた著者によれば〈主体性〉を具体的に行使しうるための環境や関係性を整える上で極めて重要である。イタリア語で〈agio〉と呼ばれる概念は日本語で「くつろぎ」や「ゆとり」であり「安心」であり、機械やハンドルの「遊び」のような意味でも持ちいられる。この〈agio〉が欠如した状態を〈disagio〉と呼ぶ。ちなみにイタリアの精神保健の文脈では「精神疾患」や「精神障害」という言い方はほとんどされていないそうである。それに代わって使われているのがdisturbo mentale(精神的な不調)であり,Disagio mentale(居心地の悪さ、生きづらさ)である。これらはグラデーションになっており、社会的なレベルでの介入を必要とする後者から、より医学的な介入を必要とする前者へと移行していくと考えることが出来る(P221)、さて精神保健の仕事は欠如している〈agio〉を感じられるような環境をいかにして作るか、ということになる。いくらホテルのような快適な空間にしようと、生活の場でない以上病院には〈agio〉が欠けている。もちろん地域精神保健のオペラトーレがしばしば言うように、病院が〈disagio〉を感じさせる場所になりやすいだけではなく、地域の施設や自分の家であってもともすればそうなるのではあるが、具体的にイタリアのカーサ・ファミリアを本著の記述に沿って簡単に紹介してみたい。カーサ・ファミリアの住人は「オスピテ」(ここでは客、ゲストという意味)と呼ばれる。ここにはあくまで一時的な滞在者という意味もこめられているそうである。カーサ・ファミリアは居住系施設とはいえ、行動に関する制限などは全くないので、オスピテはそれぞれ思い思いの毎日を送っている。しかし同時にそこは、共同生活をしながら、他人と「一緒にいる」ことを学ぶ場でもある(P.224)。具体的には共同棟の大広間での食事等である。ここで重要なのは「一緒にいること」であり、そうすることで、「一緒に」いながら「一人で」いることを各々が学びなおすのである。さて、カーサ・ファミリアはというのは、やはり本当の家ではない。ところが居心地が良いとカーサ・ファミリアの生活に適応しきってしまって、外で一人ではやっていけなくなってしまう。サベェリオ医師によれば「環境が、なんと言うか、あまり刺激的でないほうがいいんだ、でもふさわしい仕方で自分が考慮されているようなところのほうがね。」(P.238)「一人で自分自身と一緒にいることができないから」カーサ・ファミリアから外に出て行くことが出来ないというのは重要な指摘で「一人で自分自身と一緒にいること」が出来てはじめて、外に出て他人と一緒にいることも出来るようになる。「何もしないことを楽しむこと」ができてはじめて、何かをすることを本当の意味で愉しむことができる。ここから先、本著では自立と依存の弁証法が詳しく論じられているのだが、結論部分だけをご紹介して本稿を終えることにしたい。「一人の人間の生というのは人々のあいだで営まれるものであり、そうした多数の生が、「わたし」を支える、見えない「われわれ」として常に生きているからこそ、私たちは一人で生きていることができるのだし、能動的な〈主体性〉を現実に行使することが可能になるのである。しかし、このことは「家」や「家族」においても実は同じであろう。家を出て独り立ちするのも、カーサ・ファミリアから出てゆくのも、「わたし」という図が、その地としての「われわれ」を自己の内に折りたたみ不可視なものとしながら、よりくっきりと「わたし」を描こうとするときが来たからであるように思われる(P.249)。最後に本著にはおりふれ通信で計二回書評させて頂いた内容以外にも、実験演劇や言語学的な「中動態」の議論、現象学的な議論等様々な内容が盛り込まれているが、評者には力量不足で到底すべてをご紹介することが出来なかった。むしろ学生、院生時代にいわば表面的に頭だけで理解していたことが、本著を呼んで腑に落ちた点が多々あるというのが、わたしの現在の率直な感想である。すべてを理解することは少し難しい本だとは思うが、アマゾンでの購入も是非おすすめするし、経済的に苦しい方は公立図書館等にもおいてあるようなのでぜひ手にとってご一読くだされば評者としてはまことに幸いである。
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